ジャンダルムで揺れた鎖の音

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山と地質と街道とフィルムカメラのブログ 月1回更新

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雪山と街道は意図的に歩き方を変えるべき【徒歩奥州街道後編】

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3日目

前日の夕方から降り始めた雨はいったん止んだ。しかし午後からは本降りの予定である。急がなくてはならない。しかし足がかなり痛くなってきている。スピードが出るだろうか。

宇都宮を出てからは前日までよりもだいぶ幹線道路感が薄れ、やっと街道歩きっぽくなってきた。そして宇都宮まではほとんどなかったアップダウンが現れ始めた。奥州街道は箱根や笹子峠のような標高1000m超の峠はないため楽なほうである。それでも痛めた足には少しの傾斜でもつらい。足を引きずりながらさくら市の街中までたどり着いたが、ペースがまったく上がらない。「歩行の限界への挑戦的な意味合いが小さい」とか考えていた1日目の自分を殴りたい。これはもうバファリンに頼るときだろう。バファリンの効能は東海道実践編で述べたとおりだ。しかしバファリンを飲む前にやるべきことがある。痛みがあるうちに痛みの原因究明をしなくてはならない。負荷がかかったまま痛みがなくなってしまうと、バファリンが切れたタイミングで本格的に動けなくなってしまう可能性がある。原因を考えながら歩いていたがなかなか分からない。そのときふと雲の隙間から太陽が覗き自分が歩いている影が見えた。そして気づいた。影が左右に揺れすぎている。

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宇都宮以降は古道が残っていたりする

身体の左右のブレはすなわち重心のブレだ。重心のブレを抑えるために足の外側の筋を使いすぎたと考えられる。原因が重心のブレと分かったところで、負担を軽減する歩き方を模索する。まずは足を開く幅を狭くする。ブレが小さくなったが、まだ揺れている。続いて歩幅を狭くした。揺れがほとんどなくなり一歩毎の痛みも軽減された。この歩き方でいこう。10分程度歩いてみて支障が特になさそうだったのでバファリンを投入する。薬が効き始めペースがかなりよくなってきた。もっと早く歩き方の問題に気付いていればよかった。そういえば今までの街道歩きでは特に意識しなくともこの歩き方をしていたような気もするが、なぜ歩き方が変わってしまったのだろうか。

 

 

まず考えられる原因は1年半ほど街道歩きをしていなかったことだ。なかなかタイミングが合わず長い距離の歩き方を身体が忘れてしまっていたのだろう。そして街道歩きをしていなかった期間でひたすら山に登っていたことにより、歩き方の癖が変わってしまった可能性が高い。基本的に登山では足を置ける場所が限られるため歩幅は一定にならず、自分の足につまづかないように足を肩幅くらいに開いて歩く。特に冬山ではアイゼンをつけるため、自分の足に穴をあけないように足を大きくひらいて歩く。無意識にその癖がついてしまったようだ。意識的に歩き方を調整する必要がある。

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この爪で自分を蹴っ飛ばすと文字通り穴があくため足を開きがちに

足の痛みを抑えられたのも束の間、今度は雨が強くなってきた。日が暮れるころには土砂降りとなり、ただつらい。暗さや雨音で情報が少ない状態で寒さと痛みにさらされ続け、精神的な逃げ場がない状態である。ちょっとでも気持ちを切り替えようと音楽を聴きながら進む。どのアーティストが今の状況にマッチするかいろいろ試してみたが、星野源の音楽はなぜかつらい状況にピッタリだった。つらい状況で音楽を作っているのだろうか。いまの状況は星野源の言葉を借りれば「あの娘の裸とか単純な温もりだけを思い出す」という感じだ(星野源クモ膜下出血で入院中の気持ちを歌っているらしいので街道歩き程度で同じ気もちというのはなんだか申し訳ないが)。雪山でも同じような気持ちになることがある。生命活動がやや脅かされているサインだろうか。「あの娘の裸とか単純な温もり」と「雪山で死にかけ」は対義語かもしれない。

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宇都宮で確認した3日目午後の天気予報

宇都宮以降は大田原を過ぎると街があまりない。宇都宮~大田原は1日に歩く距離としては今までよりもやや短いが、雨が強いので早めに切り上げるくらいでちょうどいいとか思っていた。しかし足の痛みや雨のせいでなかなかペースがあがらず、大田原についたのは20時ごろだった。まったく早い切り上げではない。もはや雨のピークは過ぎ、小雨となっていた。

 

―3日目歩行距離:約44km―

 

4日目

夜明け前に出発した。休みの関係上、今日中にゴールして東京まで戻らなくてはならないためである。幸いなことに快晴だ。歩みを妨げる環境要因はなく言い訳ができない。大田原以降は比較的歩きやすい道が続いていたものの、コンビニや道の駅等の休憩ポイントが非常に少ない。この休憩のしづらさは甲州街道甲府以後を彷彿とさせる。こうなってしまった理由もだいたい同じで、大田原から白河までは高速道路や鉄道が旧街道からやや離れたところを通っており、大きな街がそちらに集中しているからだ。街道に宿場町がなくなってしまったような状態で、条件的には街道が機能していた当時よりも難しくなっているかもしれない。当時の人からは「雨具なしで草鞋を履いて未舗装路を歩いてから言え」と言われてしまうかもしれないが。

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快晴、こんな感じの景色の道を歩き続けた

歩行はすこぶる順調で昼過ぎには峠を越えて白河市に入った。ここからみちのくである。坂を下って1時間半程度歩くと白河の街中についた。しかしゴールはここではない。街を通り過ぎ阿武隈川を渡った先に奥州街道の終点がある。白河から小さな山をひとつ越えなくてはならず地味に遠い。最後のカーブを曲がりゴールが見えてきた。なにもない。石碑も看板もない。こんなに淡白な街道終点は初めてである。江戸幕府が整備したのはここまでだったのかもしれないが、江戸幕府整備以前の奥州街道(陸羽街道)は東北まで一続きだったためと考えられる。道の使い方としては白河が切れ目ではなかったのだろう。ということで今回の旅はこれまでだが、この先も確かめる必要がありそうだ。終点は青森らしい(海をわたって函館までという説もある)。まだ4分の1程度しか歩いていないようだ。知ってしまったらもう逃げられない。そのうちまたここから歩き出すことになるのだろう。

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V字の分岐がゴール地点

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近くの家の庭でおじいちゃんがなにか歌っている。やたらコブシがきいているので演歌かと思ったが、よく聞いてみるとSuperflyだった。次のスタートのときもこれが聞けたらいい気持ちでスタートできそうな気がした。できるだけ早く戻ってくるから長生きしてほしいものである。

 

―4日目歩行距離:約43km―

総歩行距離:約204km

所要時間:78時間=3日6時間(睡眠・休憩含む)

 

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白河ラーメン食べて帰った