2024年3月にタンザニアに行った。キリマンジャロに登るためである。ノウハウをまとめたブログはほかにたくさんあるので、このブログでは取り扱わない。ここでは現地で日々つけていた記録を写真とともに振り返る。
同行者は友人Tの1名だ。
今回は準備~登山開始前まで。
準備
- 日程を確保できた友人Tが北朝鮮入国履歴のせいでESTA(アメリカの電子渡航認証システム)を申請できない状態だった。入国できないわけではないが、ESTAではなく正式なビザを取得しなければならず、けっこうめんどくさい。乗り継ぎも対象になるらしい。そのため行先から北アメリカや南アメリカを除外した。残りで検討した結果、タンザニアのキリマンジャロに行くことになった。
- こちらから誘ったにも関わらず、友人Tが飛行機や宿の予約などほとんどの手配をしてくれた。大変ありがたい。
- タンザニアのビザの申請をオンラインで行った。料金をクレジットカードで払おうとしたところ、不正利用扱いになりカードを止められた。国のサイトであろうが関係ないらしい。
- 黄熱病のワクチンを打った。タンザニアは渡航者に黄熱予防接種を要求する国ではないが、乗り継ぎのエチオピアはその対象であり、証明書の提出を求められることもあるようで念のため打った。打った翌日は、睡眠時間が延びたのとランニングのとき身体が重かった。これが副反応だったのかはわからない。
- 高山病の薬(ダイアモックス)を処方してもらった。処方箋が必要で医師と話す必要があるが、行った病院で医師と直接話すことはなく、オンラインで話しただけだった。非常にスムーズで、省力化に全力を尽くしている病院だった。
- タンザニアはビニール袋の使用や持ち込みが法律で禁止されているため、ザックに入っていたビニールをすべて取り出した。ビニール袋がない状態のパッキングはけっこう大変。
3/11(成田→インチョン)
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22:30に韓国の仁川(インチョン)空港に到着し、1時間半だけ空港に降ろされ、0:00に同じ飛行機で再出発。またすぐに機内食が出てきて満腹。
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「プラダを着た悪魔」をみた。
3/13(→アディスアベバ→キリマンジャロ国際空港→モシ)
- タンザニアを走っている車は、日本の中古車ばかりだった。乗ったタクシーは長崎からきたシエンタで、車検が平成31年で切れていた。長野県御代田町のキャラクターがついた幼稚園バスもいた。タンザニアは1961年までイギリスの植民地で、左車線右ハンドルのため、日本の車が導入しやすい状況になっている。その後話した多くのタンザニア人も、日本を車の国として認識していた。ただし、日本で手放されている車だけあって、ドアが片方開かない、エアコンがつかない、などたいていどこか壊れている。
- 車道で速度を落とさせるための段差(ハンプ)の殺意が高い。そのままの速度でいくと車が壊れるような段差がある。サスペンションが壊れて傾いた車が多いのはこれのせいかも。
- キリマンジャロ登山はガイドをつけるのが義務化されているため、モシの宿に荷物を置いてすぐにツアーの契約に行った。Matata Toursで契約した。1人1100ドルでチップは別。1100ドルのうち730ドルは国立公園の入域料等の値段で政府に支払われるらしい。詳細な説明や政府への支払いは翌日行うことになった。
- 夕食はIndoitaliano Restaurantでマトンカレーを食べた。トマトが効いていてハヤシライスっぽく、とてもおいしい。
- モシは街に犬がいない。猫はときどきいる。人はいっぱいいる。フルーツ(ドリアン、パイナップルなど)や靴磨きの露天商が道路にいっぱいいる。なにもしていない人もいっぱいいる。
- 宿はWe Travel Hostel。1泊1700円。マラリア対策のためベッドに蚊帳がついていた。蚊帳のなかで寝た。
3/14(モシ)
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登山中は沢水を飲むことになるとの情報があったため、水の消毒薬(waterguardという名前)を探しに街を探索しにいった。
- 街の若者に勝手に案内された。どう考えても怪しいので、お金は払えないことを伝えたがそれでもついてきた。
- キリマンジャロが見えた。霞んでいたがそれでも大きい。モシとキリマンジャロ山頂との比高は5000m以上ある。ヒマラヤも大きかったが、町の標高も高いし、この距離感で見上げることもなかった。こんなに大きい山は初めて見た。
- 銀行でドルをタンザニアシリングに両替した。日本円の両替はあまりできないため、日本でドルに両替してきていた。スーツを着た受付のお姉さんがきれいでかっこいい。
- 友人Tが散髪した。バリカンを使うのはとても上手だったが、はさみに持ち替えたとたん手元がおぼつかなくなった。タンザニア人は超短髪がベースであり、はさみを使い慣れていない様子。
- 勝手についてきていた案内人にやはりお金や食事を請求されたが逃げ切った。
- Matata Toursで登山の詳細な説明を受け、入域料を支払った。入域料の支払いは、ビザの取得と同じく政府のHPからクレジットカード決済を行うが、またもやクレジットカードが不正利用扱いとなって使えなかった。不正利用の警告と解除手続きの連絡は、電話回線を使ったSMSで届くため、解除をすることもできなかった。2人とも手持ちのすべてのカードを試したがどうにもならず、最後に友人Tのデビットカードがなんとか使えたため、私の入域料は立て替えてもらった。この問題にはみんな直面するようで、マタタツアーズの職員は日本のクレジットカードの名前をかなり覚えていた。エポスカードなら使えることが多いらしい。
- 昼食はUnion Cafeというキリマンジャロコーヒーが飲める店に行った。そこで隣の席にいたスウェーデン人の男性看護師2人と交流し、インスタを交換した。病院に派遣されており、日本に来る可能性もあるらしい。ものすごく優秀な人たちなのかも。
- 町に廃墟が多い。いつ倒れてきてもおかしくないようなビルがそのまま残っている。
- 土産屋や駅を探索した。旅客鉄道はほとんど運行されていないが、貨物は多少運行しているようだ。そのため駅前は人がいっぱいいるわけでもなく、多くの荷物やトラックがあり、治安があまりよろしくない。
- とにかく客引きをされる。無理やりどこかに連れていかれることはないが、対応がかなり面倒。ちゃんとしたスーパーや土産物屋や銀行などに入ると撒くことができる。これらの店には入口に銃を持った警備員がいる。
- タンザニアは宗教混ぜこぜの超多様性社会だった。人口比率でいうと、イスラム教とキリスト教が40%づつで、残り20%はその他のいろいろな宗教。町にはイスラム教、キリスト教、ヒンドゥー教、シーク教の寺院がそれぞれあった。
- 学校も宗教混ぜこぜだった。同じ制服でもヒドゥラを付けてたり付けてなかったりで、宗教ごとに学校を分けたりしていないみたいだった。生徒たちはみんな制服を着ていた。日本の上履きの色みたいな感じで、ズボンやスカートの色で学年を分けていた。色は赤や緑などの原色。原色がよく似合っていた。
- 旅行期間全期間がちょうどラマダンの時期と重なっていた。地元のものが食べられるレストランがすべて閉まっているため、インドやヨーロッパの料理ばかり食べることになってしまった。
- 朝5時や夜8時にコーランが大音量で町に響きわたっていた。
- 夕食はBlossoms Cafeという小ぎれいな店でピラフを食べた。食事中に停電があったが5分ほどで復活した。周りの人の反応を見るによくあることっぽい。
続きは来月。次回は登山編。