ジャンダルムで揺れた鎖の音

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山と地質と街道とフィルムカメラのブログ 月1回更新

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歩くことの哲学【徒歩中山道①】

奥州街道を歩いてから1年以上たった。そろそろまた歩かなきゃいけない気がしてきた。五街道も残りはあと1つのみである。中山道編、スタート。

https://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/jousetu/nakasendou/01_a01.htm

 

始発に乗って日本橋へと向かった。もう4度目の日本橋からの歩き始めだ。五街道も残りは中山道のみである。できれば一気に歩きたかったが、今回は4日しか休みがとれていないため、途中までで時間切れになってしまうことは確実だ。それでもできる限り進んでおきたい。

さて、残り1つの街道を歩くにあたって、テーマ設定を行った。それは「なぜ私が街道歩きをしているのか」のそれらしい答えを見つけることである。街道歩きは累計で1000kmを超えているが、まだ答えは見つかっていない。このテーマが解決できれば、同じく大きなテーマである「なぜ山に登るのか」にも迫ることができるかもしれない。こんなことをだらだら考えながら中山道を歩くこととした。

4度目の日本橋スタート、4度目なのは日光街道奥州街道と分岐する宇都宮から始めたため

街道歩きの理由として自分のなかで顕在化しているものは特にない。毎回「そろそろやらなきゃなあ」くらいの感覚である。一方で、勝手にやっている自分で言うのも難だが、街道歩きはけっこうきつい。「そろそろやらなきゃなあ」という掃除感覚でやるようなものでもない。自分のなかで言語化できていないなんらかの理由があるはずだ。これがなんらかの成功体験なのか、強迫観念なのか分からないが、考えられることを挙げてみる。まず、現時点でもっとも腑に落ちているのは下記の内容である。

 

 なぜハイキングをするのか。わたしはこの質問を数多くのハイカーにしてきたが、一度も納得できる答えが返ってきたことはない。理由はひとつではないだろう。体を鍛えるため。友達との絆。野生に浸り、生を実感するため。征服するため。苦しみを味わうため。悔悟のため。思索に耽るため。喜びのため。だが何にもまして、わたしたちハイカーが探し求めているのは単純さ、道がいくつにも枝分かれした文明からの逃避だと思う。

 トレイルのいちばんの喜びのひとつは、明確に境界を定められていることだ。毎朝、ハイカーの選択肢はふたつしかない。歩くか、やめるか。その決断をしてしまえば、ほかのこと(いつ食べ、どこで眠るか)はあるべき場所に収まっていく。 -中略- 選択からの自由という新たな開放は大きな安心感をもたらすのだ。

ロバート・ムーア, 2018, トレイルズ「道」と歩くことの哲学. P340-341. (エイアンドエフ)

 

これはほんとうにその通りだ。おなかが空いたら次にみつけた店で食事をとるし、夜になれば次の街で泊まることになる。文章中で指摘されている通り、「歩くか、やめるか」だけ決めればよい。非常にシンプルで、日常生活に比べ精神的にかなり楽であることは否めない。瞑想やヨガに近いような気もする。最近の流行りの言い方だとマインドフルネスだろうか(このへんの違いがよくわかっていないので怒られるかもしれないが)。

なぜこれらのマインドフルネス的なものに近いと思ったかというと、街道歩き後は明確に頭が回るようになっているという実感があったからである。やたらと仕事がはかどるのだ。100マス計算とかをやらせたら有意な差がでるかもしれない。日常生活に比べて情報処理や選択の負担がなく、「ただ考えるだけ」の時間を4日間にもわたって確保することができたため、脳のメモリ解放を行えたような気がする。

ただしこの理屈でいうと、私が歩くに至ったのは文明に浸った生活のせいである。よって私は単純に歩くのが好きというわけではなく、文明からの逃避先として歩きを使っているに過ぎない。この理屈が登山にも拡張できるとするならば、私は山が好きなのではなく、街から逃げているだけである。山好きを自称してきた私としてはなんだか悲しい。

また、この理屈がほんとうに合っているのかを確かめるには、いまの暮らしを捨てるしかないため、現状では確かめようがない。いま私は人よりも自然のなかに入る仕事をしているものの、やはりベースは都会での暮らしである。今後もし自然に密着した暮らしをすることがあれば、そのときに街道歩きや山登りをしたくなるかどうかで確かめることができるだろう。そのような暮らしにシフトするようなことがあれば、自分の感情の変化とともに報告しようと思う。

この緑の看板は今回の旅の最後までいろいろなところにみられた

このような「都会や選択からの逃避」としての街道歩きは、街道歩きで無意識に得ているものをうまく言語化できている気がする。一方で、街道歩きの義務感のようなものはうまく説明できていない。そのような義務感に対しては、下記の言葉がしっくりきた。

 

どうせいつかはやらなければならないことなのだ。もしそれに成功したら、きっと私は自分の人生を少しだけ前進させることができるのだろう。

角幡唯介, 2012, 空白の5マイル. P28. (集英社文庫)

 

私の別の記事でも引用したことがあるが、これは冒険作家の角幡さんにより、危険な冒険に出るときの複雑な心境が表現された言葉である。危険なこととかの冒険をやめる理由はいろいろあるけど思いついちゃったらやるしかない、というニュアンスだと理解している。これにもかなり共感できる。街道歩きは角幡さんの行為と比較すると冒険という感じではないが、あえて苦痛に向かっていく点では同じとさせてほしい。思いついてしまったら、たとえやることが肉体的に多大なる苦痛を伴うことだとしても、やらないほうがつらいのだ。やっていない自分を自己否定が襲い続け、やってようやく自己肯定感がゼロに戻る(あんまりプラスにはならない)。私の場合は、個人的特性である完璧主義が追加されるため、義務感はさらに強化される。日本百名山五街道などのシリーズものに手を出してしまうと、完成するまでやめられない。我ながら幸福度が下がりやすい性格である。

学生時代によく行っていた巣鴨の登山靴屋の前を通過

 

あとは、日常生活とは異なるストレスを受けることにより、日常生活が楽しくなることを無意識に学習している気がする。サピエンス全史にこんな記述がある。

 

 地上に楽園を実現したいと望む人全員にとっては気の毒な話だが、人間の体内の生化学システムは、幸福の水準を比較的安定した状態に保つようにプログラムされているらしい。 -中略- 学者のなかには、人間の生化学的特性を、酷暑になろうと吹雪が来ようと室温を一定に保つ空調システムになぞらえる人もいる。状況によって、室温は一時的に変化するが、空調システムは必ず室温をもとの設定温度に戻すのだ。

ユヴァル・ノア・ハラリ, 2016, サピエンス全史(下). P226-227. (河出書房新社)

 

この文章によると、人間は幸福も不幸も長続きしないしすぐに慣れてしまうようにできているらしい。たしかに昔より圧倒的に飢えや病気が軽減され死ににくい現代にも関わらず、現代社会が幸せでしょうがないかと言われるとそうでもない。そして人間(生物)はより生存の可能性を高めるために、現状の改善を無意識のうちに模索してしまうようである。改善できないことはストレスとして積み重なっていく。そのため、同じような生活を続けているだけで、我々は不幸になっていってしまう。

それを避けるために、我々は山に登るし、歩く。日常に変化をつけ自らの生存を脅かすようなストレスを得ることによって、日常のストレスをリセットすることができる。詳しくは以前書いた記事を参照してほしい。

学校行事で参加していた100kmハイクのスタート地点である本庄市役所、私が長距離歩行に目覚めたきっかけの地

 

以上の3要素は、歩く理由をそれなりに広くカバーして説明できているように思う。改めて要約した内容を挙げてみると、

1. 街からの逃避

2. 逃げられない義務

3. ストレス解消

と、かなり後ろ向きな理由ばかりだ。どうやら私は歩くことによってペシミスティックな考え方からの脱出を試みているらしい。泳ぎ続けないと死ぬマグロ、ではなく、歩き続けないと病む人間である。死ぬほどコスパが悪いが、歩き続けないと死ぬので暖かい目で見守ってもらえると幸いだ。

出張で見慣れた高崎の街を通過

 

なお、中山道の1日目と2日目は体の故障や他のトラブルもなく、特に問題は発生しなかった。街道の様子についても、郊外の国道や住宅街が主であった。報告しておもしろい事象は特になかったので割愛する。

 

―1日目歩行距離:約67km (日本橋~熊谷)―

―2日目歩行距離:約59km (熊谷~安中)―

 

②に続く

gendarmes.hatenablog.com