ジャンダルムで揺れた鎖の音

ジャンダルムで揺れた鎖の音

山と地質と街道とフィルムカメラのブログ 月1回更新

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山小屋の優しい幽霊

車から降りると湿った草木のにおいがした。6月終わりの空は雨こそ降っていないものの、どんよりとしてまだ梅雨が終わっていないことを声高に主張している。ここは栃木県足尾にある"かじか荘"の駐車場である。僕たち3人は日本百名山の一角である皇海山を登るために、高田馬場からレンタカーを走らせやってきた。

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かじか荘

皇海山」は「すかいさん」と読む。中央アルプスの越百山(こすもやま)と並び、山岳界のキラキラネームとして名を馳せている。ただし山自体にキラキラ感は一切ない。日本百名山のなかで一番地味と言われるほどである。だからなのか分からないが、結果としてこの山では人とほとんど会わなかった。人がいっぱいいれば、また雰囲気が違う山になるだろう。

レンタカーを降りた僕たちは、落石だらけの荒れた林道を歩き庚申山荘へと向かった。かじか荘についたのが昼過ぎで、この日は2時間半ほど歩いて庚申山荘に行くだけの日程だ。本格的な登山は翌日になるので気楽に歩く。同行者は同じ登山サークルに所属していたIとHの2人だ。Iは同期でHは後輩、2人とも付き合いが長く、気心の知れた仲である。この山に行ったときは皆まだ学生だったが、5年ほどたち社会人になった今でも付き合いは続いているのだから、仲がいいと言っていいだろう。

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荒れた林道

林道沿いには、猿田彦神社の跡地があり、明日通過する山が庚申山という名前で、信仰が盛んな山のようだ。既にかなりの山奥にいるはずだというのに、古くからの人工物が至る所に見受けられる。歩いているうちに霧がでてきたこともあり、やや薄気味悪い。しかし、猿田彦は道開きの神様だ。霧で道を失っても我々を守ってくれるだろう。

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猿田彦神社

身体が水滴でしっとりとしてきたころ、霧のなかから不意に庚申山荘が現れた。立派な小屋で1階にも2階にもベランダがついている。3時間くらいしか歩いていないが、Hは最近運動不足だったらしく疲れ切っている。中に入ってみて扉を閉めると、外界から切り離されたかのように外の音が聞こえなくなった。小屋は無人で静まり返っている。荷物を置いて小屋の中を探索してみると、広い炊事場があったり、30人は泊まれそうな量の布団があったり、3人で泊まるには贅沢な小屋だ。難点があるとすれば、1階に紙垂(しで)が張り巡らされた部屋があり、なんかこわかったことだ。紙垂は神聖な場所との境界線を示し、悪いものから守ってくれる結界のような役割がある。この小屋をなにから守っているのだろうか。悪いものから守ってくれるものを可視化することによって、悪いものの存在を意識してしまい、なんだか不安な気持ちのまま夜を迎えた。夕ご飯は広い炊事場で存分に使うようなものは持ってきておらず、カップラーメンをすする。やや冷えていた身体が温まる。あとは明日に備えて寝るだけだ。布団は1階にも2階にもあったが、1階の布団はややカビ臭く2階のほうが乾いている気がしたため、2階で寝ることにした。2階の布団もどれだけ放置されたものか分からず、湿っている気がしたが、布団があるだけありがたい。掛け布団は薄いのと厚いのがあり、Hと私は厚いのをかけて寝た。Iは暑いからと、薄いのをかけて寝た。

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紙垂の部屋

翌朝起きると小屋は昨晩よりもひんやりしていた。Iは寒くなったらしく、厚い布団をかけて寝ていた。目を覚ましたIは「誰か布団かけてくれたよね、ありがとう」と言って起きてきた。私はそんな記憶がないのでHがかけたのだろう。するとHが「おれもかけてないっすよ」と一言。冗談はやめてくれ。山小屋の中には我々しかいないんだ。もしかしてこれはあれか。怪奇現象というやつか。「黒部の山賊」等の本で書かれているように、山は比較的怪奇現象が多い。それが自分の身にも降りかかってくるとは思わなかったが。幸運だったのは、人間に悪さをする類のなにかではなかったことだ。優しさであふれている。1階の結界が効果を発揮していないのは、悪いものではなかったからなのだろうか。真偽のほどは定かではないが、Iが温かく寝られたという事実に変わりはないので、感謝して小屋を後にした。

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小屋の2階の泊まったところ

その後の山頂へのルートは岩場が多くやや危険だったものの、無事に山頂までたどりつき、下山も快調であった。なにかに守られていたのかもしれない。ひとつ無事ではなかったのは、Iの足が靴擦れを起こし血だらけになっていたことだ(いつものことだが)。すべてを守り切れるわけではないらしい。

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ルート中の岩場

約1年後、サークルの集まりがあり、IとHと皇海山の話になった。そこでHが出し抜けに「山荘で布団かけたのおれです」と放った。

以上、後輩に1年間騙され続けていた話をお送りしました。