ジャンダルムで揺れた鎖の音

ジャンダルムで揺れた鎖の音

山と地質と街道とフィルムカメラのブログ 月1回更新

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山に登る理由は子どもたちが教えてくれる

先日、小学生〜高校生の子どもたちと白馬岳に登る機会があった。この登山は、ボーイスカウトの活動の一環で、大学院を卒業するまでは私自身も所属していた団体だ。私は、就職に伴い家が遠くなってしまったため、ヘルパーとしてスポットでの参加となった。このような大きな行事はとにかく準備が大変である。当日のみの参加は、いいとこどりの状態だ。準備をしてくれた他の指導者には頭があがらない。

小屋やバスの手配がかなり大変、あとは訓練登山をなんども行ったり

とはいえ、スポットでの参加であっても、時間もお金もそれなりにかかる。参加にあたって、自分なりの目的を設定してみることにした。参加するまえに設定した目的は、「登山や地質に関わる将来の人材への投資」である。

私は登山が趣味で、仕事は山の地質調査だ。山が人生に与えた影響がかなり大きい。この原点がなにかと考えると、小学生のころからやっていたボーイスカウト活動であろう。そして、子どものころの私が影響を受けたように、小さなころに白馬という山に登ると、それなりに人生に影響が出る場合がある。登山や地質に関わることが、その人の人生にとって必ずしも"いい"影響を与えるかは分からないが、少なくとも私は山に登ったほうがいい人生になると思っているし、将来的に地質業界の仲間ができたら嬉しい。それらの楽しみを伝えられたと思ったのだ。

この点に関しては、目的を達成できたと言えそうだ。運営側のご厚意で、山荘で夕食を待っている時間に、子ども相手に山の地質や気象の話をする時間を30分ほど設けてもらったためである。将来彼らがどんな選択をするかは分からないけれど、地質分野に興味を持つ人が出てきたら、これ以上の喜びはないだろう。

なぜ山が非対称なかたちをしているのか

このように、事前に設定した目的は果たすことができたと思うが、山に登っているなかで、別の思わぬ収穫があった。それは、登山の本質とはやはり非日常感なのでは?という気づきである。

子どもたちの多くは、高い山が初めてであった。見る景色はもちろん、大雪渓をアイゼンで歩く感触も、湧水の冷たさや味も、知らない情報で溢れている。彼らにとって、目に映るものすべてが感情になっていた。一方で私はというと、雪渓でアイゼンをつけたり外したりするのに対しては面倒としか思わず、湧水を汲むのも水道水を汲むのと似たようなごく当たり前の感覚であった。心が動かない。どう考えてもなにか大切なものを失っている。

初めてアイゼンをつけて雪の上を歩く

この差がどこから生じるか考えると、やはり非日常感の差だろう。たしかに昔は私も雪渓を歩くのにわくわくしたし、湧水を飲むのが嬉しかったことを思い出した。非日常感を追い求めてその経験を繰り返した結果、それが日常になってしまっている。

近年、山に登るのはなぜかをいろいろ考え続けていた。答えは出ていないが、子どもたちを観察していると、非日常感のファクターが大きいように感じる。きっかけが非日常感であるならば、最も強い理由として考えてもいいのかもしれない。もう少し抽象化すると、「経験したことのない情報によって、心を動かすため」といったところだろうか。

日の入りを見届ける

他人の心を動かす手助けをすることができるなら、ものすごく意義深いことだろう。心を動かすことは、やったことのないことであればどんなジャンルのことでも可能だとは思うけれど、私は山を通してその経験を提供していきたい。それは、一方的な奉仕ではなく、私のためでもある。他人が心を動かす瞬間を観測することで、私は失ってしまった大切なものを再確認し、取り戻すのだ。