ジャンダルムで揺れた鎖の音

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山と地質と街道とフィルムカメラのブログ 月1回更新

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人はなぜ山に登らないのか

人はなぜ山に登るのか。

哲学的不変のテーマである。山に登る人なら誰もが考えたことあると思うが、結論はなかなか出ない。山に登ってる人は皆、なんで自分が山に登っているかよく分かっていないのだ。かく言う私もその一人で、よく分からないまま人生の多くの時間を費やしてしまっている。そこで、登る人が分からないなら登らない人に聞いてみるのはどうだろう。山に登らない人の理由を挙げていき、その逆の理由を持った人が、なぜ山に登るのかの答えになるのではないだろうか。逆に考えるんだ。

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なぜ山にいるのかこの中の誰もわかっていない

 

山に登るきっかけがなかった

山に登らないほとんどの人はこの理由が該当する。今までの人生で山登りに接触する機会がなかった人たちだ。世の中の人間の9割はここに含まれるが、多くの潜在的登山者の可能性を秘めたフロンティアでもある。

 

疲れるのが嫌

分かる。休みの日にわざわざ疲れることしたくないよね。家でのんびりしていたい。そんな人たち。

 

汚いのが嫌

泊まりがけで行くと風呂に入らなかったり、日帰りでも泥で汚れたり、トイレが汚かったり。嫌だよね。むしろ平気な人がおかしい。

 

危ないのが嫌

わざわざ危険なとこに行きたくない。遭難を完全に避けることはできないし、最悪死ぬこともある。命を大事に。

 

こんなもんだろうか。

ではこの理由を逆に考えてみると、「山に登るきっかけがあって、疲れるのが好きで、汚いのが好きで、危ないのが好き」な人が山に登る。超クレイジー。こんなやつと友達になりたくない。山に登ってるので、自分も実はこんなやつなのか。自分を客観的に見れているか不安になってきた。若干この要素が自分に含まれていることは完全には否定できないが、これだけの理由で山に登っているわけではないと信じたい。なぜなら、疲れる・汚い・危ないを避けたいと思う感覚は私も共感できるからだ。共感できるにも関わらず私は山に登っているので、冒頭に挙げた試みは既に失敗しているが、もう少し検討を進めてみよう。

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山で危険からは逃れられない

疲れる・危ない・汚いを避けるのは、生物としての生存本能に近いものがあり、おそらく人類皆が共感できる感覚だ。つまり山に登るという行為は生命活動の維持と相反する行為で、生きるために必要ないどころか、生きることそのものを危険にさらす。にも関わらず山に登る人は、生への執着が薄い、もしくはストレスに対して鈍感な人のどちらかであろう。ただし生への執着が薄い状態で山に入るとたぶん死ぬ。帰ろうとがんばらないと、山からは帰ってこれない。そのため、山に登る人の多くはストレスに対して鈍感である可能性が高い。

山に対してなにを魅力に感じるかは人それぞれである。達成感、景色、自然、非日常、友人、食べ物、温泉など、枚挙に暇がない。ただしこれらの多くも、山に登らない理由と同じく誰でも共感できる内容ではないだろうか。誰でも共感できる魅力があってもほとんど山に登る人がいないのは、前述したマイナス面が重すぎるからだ。よって、ストレスに鈍感であるが故にそのマイナスを感じにくい人だけが、山のプラスの面を感じることができるのではないだろうか。

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私は景色や非日常の比重が大きめ

山登りはプラス面もマイナス面も要素が多く、一言でこれといった理由をつけるのが非常に難しい。マイナス面も一部はプラスとして扱われることもある。例えば、アルパインクライマーは命を懸けた危険な状況を楽しんでいる節がある。それだけ複雑だからこそ、いつも我々はこう答えるしかないのだ。

"Because it's there." 「そこに山があるから」