ジャンダルムで揺れた鎖の音

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山と地質と街道とフィルムカメラのブログ 月1回更新

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なぜ「なぜ山に登るのか」と聞かれるのか

なぜ山に登るのか。登山をやっていると頻繁に聞かれる質問である。「そこに山があるからだよ」といってお茶を濁すが、以前の記事で検討したように、登山者自身も正確な理由を持たないため非常に答えづらい。一方でほかの趣味では「なぜそれをやっているのか」を聞かれたことはまずない。例えば草野球が趣味の人に「なんで野球をやってるんですか」と聞いても、「楽しいからだ」と言われるだけだろう。それが分かっているからあえて聞くこともしない。なぜ登山だけは理由を聞かれるのだろうか。

エベレスト登頂を目指していたジョージマロリーが「Because it's there.(そこに山があるから)」という言葉を残した。

「なぜ山に登るのか」と聞かれたときに、ほかの趣味と同じように「楽しいからだ」と答えたケースを想定する。相手は釈然としないだろう。登山未経験者には、登山が楽しいというのを信じてもらえないかもしれない。よってそのあとも会話が続いた場合は「なにが楽しいのか」と聞かれる気がする。そうなるとこちらは「景色がいいから」とか「達成感があるから」とか答えることになるのだが、そうなるとこちらが釈然としなくなる。なんだかずれている気がするのだ。

「楽しいから」でいいじゃないか

景色とか達成感を理由とすると、なぜ違和感を感じるのだろうか。個人的には、理由を構成する要素のひとつではあるが、その理由を代表させるものではないという感覚だ。また草野球で例えてみる。「ボールを打つのが楽しいから野球をやっている」と言われても、それはそうだろうけどそれだけじゃないでしょ、という気持ちになる。ボールを打つことが目的ならバッティングセンターに行けよという話で、それだけじゃないいろんな要素が楽しいから野球という形式になるのだ。なにか明確な目的があって野球という手段を選んでいるのではなく、野球自体が目的である。かなり荒っぽい引用になるが、オランダの歴史家のホイジンガやフランスの社会学者のカイヨワは、目的がある行為を仕事、その行為自体が目的の行為を遊びと定義した。その定義に則ると、「なぜ「なぜ山に登るのか」と聞かれるのか」の問いは、「なぜ登山は遊びではなく仕事として捉えられてしまうのか」に言い換えることができる。

山が仕事として捉えられてしまう原因は割と想像しやすい。あんなにもつらくて危険そうな行為を、見返りなしに実施する意味が分からないのだろう。その投資に見合うだけの素晴らしいリターンがあると考えるのだ。そのような見方をした場合、リターンの正体に興味が出てくるのは当然の帰結である。そしてこれこそが「なぜ「なぜ山に登るのか」と聞かれるのか」の問いに対する答えと考える。

十分なリターンが得られることもあるが回収率は高くない

前の記事で言及したように、私は地質調査を目的とした登山をすることもある。このときは仕事で山に登っているため、「なぜ山に登るのか」に対して明確な答えを返すことができる。そして仕事の山と遊びの山は似たようなことをしているはずなのに、明確に楽しさの量の違いが発生する。これは登山に限った話ではないが、好きなことを仕事にすると楽しくなくなるというやつだ。ただし絶対量としての楽しさは、好きでもないことを仕事にしているときよりも大きいと思う。あくまで遊びに比べて相対的につまらないという話である。

目的意識は自由な旅を阻害する、スタンプラリー的百名山もまた然り

最近の私の登山を見直すと、鉱山探検を目的にしてみたり、古道を辿ることを目的としてみたりと、登山そのものを目的としていないことが多い。そのような目的を掲げていない場合でも、写真を撮ることや自ら予報した天気のフィードバックを得ることは自動的についてくる目的となっている。目的だったはずのものが手段になりさがっているのだ。自己目的化と逆の現象である。山を純粋に楽しむためには、目的という雑音を消していく必要があるかもしれない。真面目にとらえすぎてはダメなのだ。山とは遊びの関係くらいがちょうどいい。