ジャンダルムで揺れた鎖の音

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山と地質と街道とフィルムカメラのブログ 月1回更新

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愚者は経験に学ぶ【太良鉱山探検】

鉱山探検というジャンルがある。廃墟探検の文化的要素と鉱物採集の地質学的要素が混在しており、私はどちらにも興味があるため、いずれやらなければならないと考えていた。そんなある日、会社の先輩から太良鉱山という秋田の鉱山の話を聞いた。その先輩のおばあちゃんが子どもの頃にそこに住んでいたらしい。ありがたいことに資料も提供していただいたのでその資料をとっかかりに初めての鉱山探検に繰り出すことにした。

まずは太良鉱山の沿革と地質をまとめるが、細かい内容なので読み飛ばしてもらって構わない。そのあとに踏査結果を載せる。

山本郡平鉛山岡絵図一中心集落一 
益子(1987)より引用

 

太良鉱山沿革

秋田県山本郡藤里町大字太良にあった鉱山である。太良鉱山の歴史については、益子(1987)に詳しい。開山は文永年中(1264~1274)までさかのぼるとされる。鉱種は金・銀・銅・鉛・亜鉛・硫化鉄であり、銅や鉛を主とする。人口は増減があるものの、最大で750人程度だったようだ。採掘は昭和の時代まで続いていたが、1958年に洪水のため輸送用のトロッコが壊滅的な被害を受け、鉱山も休業となり、その歴史に幕を閉じた。現在、集落の中心があった場所は、立石林業(株)太良出張所となっている。

goo.gl

 

地質

太良鉱山には、新第三系の火山岩類(黒石沢層)が分布する。全体的に著しい変質を被っている。分布している岩石は、安山岩質の火山礫凝灰岩や溶岩である。岩質は変化に富み、流紋岩質なものや玄武岩質なものも認められる。

鉱床の成因は鉱脈鉱床に属する。熱水が通過途中の岩石の鉱物や元素を溶かしこみながら上昇し、温度や圧力の低下などで含まれていた鉱物が岩石の裂罅(れっか)に結晶化して形成された鉱脈である(Wikipedia調べ)。

地質図Naviより、紫や青は玄武岩溶岩や岩脈

https://gbank.gsj.jp/geonavi/geonavi.php#15,40.38702,140.32444

 

踏査結果

集落の現状

まずは太良集落の中心地に向かうことにした。集落跡は広場となっており、当時の建造物はほとんどないが、レンガ作りの煙突はまだ残っている。煙突はまだ自立しているものの、上端から崩れたレンガが周囲に散らばっているし、縦方向の亀裂が連続しているため、じきに崩壊しそうである。煙突は内部ものぞくことができたが、鉱石等はとくに落ちていなかった。

煙突遠景

煙突近景、イギリス積み

集落跡の広場は均されており遺構は見受けられないが、集落周辺のヤブのなかには基礎の跡や陶器などの生活の痕跡が点在していた。ただし建造物自体の木材やトタンなどは落ちていなかった。鉱山が休業となった際に放置されず、しっかりと撤去されたようである。時代的にも建材が不足していたはずであり、移転先で再利用されたのかもしれない。レンガ作りの煙突のみが残っている現状とも整合的である。1950年代はもう建材としてのレンガの需要が低かったのだろう。

基礎の跡

集落の川側には、カラミ(製錬するときにできたカスを固めたもの)が大量に捨てられている。青みがかったカラミが多く、銅が多量に含まれていると考えられる。カラミが捨てられている位置は、益子(1983)で示された絵図において「銅山釜」と書かれている場所に近く、銅の製錬が行われていたのだろう。

落ちていたカラミ

集落の斜面側には、山神社が鎮座する。建物は平成に入ってから建て替えられたようで新しいが、狛犬や神社に保管されている棟札や鰐口は当時のものがそのまま残っているようだ。境内はかなり整備が行き届いており、立石林業の方か当時の居住者の方かわからないが、誰かが定期的に清掃しているようだ。

山神社、建物以外は当時のまま

 

山側の坑道の現状

秋田県鉱山史(1968)に載っている坑内外図をもとに七枚沢や文殊坊沢の坑道を探索した。

七枚沢は坑道はおろかその他建造物の痕跡も見つけることができなかった。鉱化変質を被った岩石はとこどどころに落ちていた。流出したズリかもしれない。坑内外図にはかなりの数の坑道が載っている。概念図であるため詳細な位置を判断することは難しいが、ひとつも前を通っていないとは考えにくく、崩落により坑口が埋まっているものと考えられる。

鉱化変質を被った岩石、黄鉄鉱をよく含む

七枚沢と文殊坊沢のあいだの尾根は地すべり地形が分布する。地すべり堆積物が厚く地山までの到達が難しかったようで、坑道は記述も痕跡もなかった。

地質図Naviより、地すべり地形分布図(NIED)を重ねて表示
地すべり地形だらけの太良鉱山周辺

https://gbank.gsj.jp/geonavi/geonavi.php#15,40.38702,140.32444

文殊坊沢では坑道こそ見つけられなかったものの、痕跡は多数存在した。建物基礎や桝、切通などの建造物や道の痕跡が確認できた。碍子も落ちていたため、電気が通っていた可能性が高い。

切通

また、ズリ山も多数確認することができたほか、沢沿いに流出したズリには鉱石が含まれていた。方鉛鉱および黄銅鉱と推定される。閃亜鉛鉱が含まれている可能性もある。黄銅鉱は黄鉄鉱とよく似ているが、この鉱石に含まれているものはやや色が黄色っぽいほか、青い粒が含まれるため黄銅鉱である可能性が高い(黄銅鉱は酸化すると青くなる)。なお、黄銅鉱は色が黄色っぽいゆえに金の色に似ており、この鉱石を見つけたときは興奮したが、粒をたたいたら普通に砕けたため少なくとも金ではない(金は延性がありたたくと延びる)。ちなみに黄銅鉱と見た目が近い黄鉄鉱は「愚者の金」とも呼ばれており、金と間違えられてきた歴史を持つ。例に漏れず私も愚者であった。

方鉛鉱+黄銅鉱?

鉱石拡大、青い粒は酸化した黄銅鉱の可能性が高い

5万分の1地形図「太良鑛山」(地理調査所、1957)では、この地域に「新鑿坑」の記述がある。1958年に鉱山が休業となった際はこの新鑿坑を採掘していたため、痕跡が数多く残っていると考えられる。また、鉱山休業の原因は洪水により輸送路が破損したためであり、鉱石がとりつくされたためではない。拾った鉱石はそれなりに純度が高そうだったし、まだ鉱物資源は残っているのかもしれない。

 

藤琴川本川沿いの坑道の現状

藤琴川本川沿いには坑道が多数現存した。本川沿いは急峻な岩崖になっていることが多く、土砂による被覆をまぬがれている。一方で坑口は河床とほぼ同じレベルかそれより低いところにあるものもあり、水没リスクが高い。もとからこのような災害リスクが高い位置に坑口を作る意味はなく、砂礫の堆積により当時よりも河床レベルがあがっていると考えられる。竣工年は不明だが、太良鉱山から約2km下流には砂防堰堤がある。そもそも急崖が形成されるような谷の割に河床礫が多すぎるし、砂防堰堤により土砂の堆積が進んだのかもしれない。一方でズリはすべて流されてしまったようで、一般的な河床礫しか確認することができなかった。

坑道①

坑道②

坑道③

坑道からはたびたび湧水が出ていた。岩盤からも直接湧水が出ていることがあり、いずれも湧水の流路に赤錆がついていた。この水は岩盤の亀裂に分布する深層地下水であり、鉱床中の金属鉱物を溶かし込んでいると考えられる(鉄バクテリア由来の水酸化鉄かも)。温泉でもないのに錆があるときは、岩盤中に金属鉱物の含有量が多いことが推定されるため、鉱山を探す目安になるかもしれない。

裂か水

本川沿いにはたびたびレールが落ちていた。輸送用のトロッコのレールと考えられる。岩盤を削って平らにしたり、岩盤をくり抜いて柱を入れていたりした跡も見受けられた。トロッコ本川に比較的近い高さを走っていたと考えられる。おそらくこれこそが太良鉱山休業の理由である。太良鉱山周辺は太良峡と呼ばれ、急峻な谷が形成されている。集落の中心はやや高いところにあるが、同じような高さの場所を通そうとした場合、かなり規模の大きい橋を作らないと沢を越えることができなかったのだろう。そのため沢を比較的簡単に越えられる河床付近にトロッコを通した結果、洪水に流されてしまったのだ。

レール

支柱基礎跡

所感

太良鉱山は比較的最近まで採掘を行っていたため、休業から60年そこそこしかたっていない。にも関わらず、坑口は大部分が埋まっていたし、人がいた痕跡も注意深く探さないと見つけることができない。最大750人程度住んでいたような街があったことを現状から想像するのは難しいだろう。鉱山は700年以上前からあったのに、たった60年でここまで自然に覆われてしまうのだ。6000年前のメソポタミア文明とかを発掘している人たちは、どうやらとんでもないことをしているということが分かった。学ぶための歴史はそもそも賢者でないと学べないと、経験から学んだ愚者であった。

 

参考文献

秋田県産業労働部鉱務課, 1968, 秋田県鉱山誌. 秋田県

角清愛・大沢穠・平山次郎, 1962, 5萬分の1地質図幅説明書「太良鉱山」. 地質調査所.

地理調査所, 1957, 五万分一地形圖「太良鑛山」. 

藤里町史編纂委員会, 2013, 藤里町史. 藤里町

益子清孝, 1987, 近世後期における太良鉱山の集落構成とその機能. 秋田立県博物館研究報告, 12, 27-50.