2年半前の2020年秋に南アルプスを横断する古道である伊奈街道を歩いた。事前情報が不足していたため分からないことが多く、その後も細々と文献調査を続けていた。情報が増えてきたので一度まとめておくことにする。
※現地踏査の記録はこちら
名称
伊奈街道(甲州側の呼び方)/甲州街道・甲州新道(信州側の呼び方)
それぞれで呼び方が違ったようだ。予算もそれぞれの地域でこの名前でおりている。道を行先の名前にするのはよくある話だが、どちらかの名前をつけるのが一般的で、名前が2つあるのは珍しい。この道がしっかり機能して交流が進めば名前も統一されそうなものだ。名前がいろいろあることも道がまともに機能しなかった証左かもしれない。なお、「伊奈」は、現在の上伊那・下伊那郡のことで、当時の中心地も飯田である。
ルート
信州の伊奈と甲州の河内(今でいう峡南)を最短距離で結ぶ南アルプス越えのルート
山梨の切石から、南アルプスの伝付峠や三伏峠を経て大鹿村に出て、飯田へと達する道である。
目的
長野・静岡・山梨の物資輸送
具体的には、富士川からで運んできた海産物や甲州のその他物資を伊奈に運んだりすることをイメージしていたようだ。従来は南アルプスを北に回り、伊那と茅野を結ぶ金沢峠を通るルートが一般的であった。伊奈街道の成立により、道程を二十里(約80km)短縮することができる。信州側には、甲州街道の名を横取りしようという思惑もあったらしく、五街道である甲州街道と同じ名前をつけたのは「敢えて」のようだ。
歴史
明治 6年 (1873年):協議開始
明治 7年 (1874年):静岡県の許可がおりる
明治16年(1883年):長野県の許可がおりる
明治18年(1885年):本工事開始
明治19年(1886年):道路完成、長野県・山梨県立ち合いの見分願を提出
構想から開通まで13年を費やしている。静岡県の許可は早々におりたものの、山梨県・長野県の許可がおりるまでに時間を要しているのは、後述する多大な予算の関係だろうか。なお、明治10年には「狭いながらも人道程度の路線を一応通し、伊奈街道としての路線が開通した」との記述があった。開通までの時間があまりにも早いのと、工事許可もないなかで大きな予算を使うことができたとは考えにくく、これはもともと杣道として使用されていた道に多少の手直しをした程度であろう。
予算
四万二千百八円二十銭を甲信で折半
現在のお金になおすと8億4000万になる (換算の仕方はいろいろあるが下記リンクを参考にし1円を2万円とした)。参考に、R4年度の早川町の予算は29.5億、そのうち土木費は7.4億、R4年度の大鹿村の歳出は2.0億、そのうち土木費は0.2億だ。他の町村もお金を出しているとはいえ、いまの予算感だとなかなか厳しそうだ。ただし、両自治体とも当時は現在よりも人口が多く産業が栄えていたため、予算に余裕があったのかもしれない。なお、道を通すにあたって、静岡側にも協力が呼びかけられている。工事の許可はすぐに出されたが、工費は出してもらえなかったようだ。明治時代は、後述する榑木の生産のピークを過ぎていたため、静岡としてはあまりメリットを感じなかったのだろう。
出資町村
長野側17町村:大鹿村、南向村、龍江村、久堅村、喬木村、神稲村、生田村、松尾村、伊賀良村、信夫村、里見村、市田村、上郷村、飯田町、上飯田村、鼎村、片桐村
山梨側18村:都川村、五箇村、五開村、大須成村、寺沢村、夜子沢村、曙村、飯富村、伊沼村、八日市場村、切石村、手打沢村、西島村、本建村、湯島村、三里村、硯島村、奈良田村
今と自治体の区分が違うが、東西に道が繋がったら恩恵を受ける周辺の自治体と思えばよい。正確ではないが、長野県側はだいたい今の下伊那郡、山梨県側はだいたい今の南巨摩郡に相当する。なお、国や県の予算は出ていない。
長野県下伊那郡の範囲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E4%BC%8A%E9%82%A3%E9%83%A1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%B7%A8%E6%91%A9%E9%83%A1
成立以前
猟師・杣人の往来は古来からあり、江戸時代以降は物流経路としてもたびたび機能していた
伊奈街道成立以前は、猟師や杣人(今でいう林業関係者)が使う道はあったようだ。ただし、正確な記録は残っていない。安政5年(1858年)には、物資の運搬に使われたことを示す記録がある。大鹿村大河原から、杣人の拠点である静岡県の西俣まで、食料やわらじを運搬している。西俣周辺は、幕府所有の森林として榑木(平安時代から江戸時代後期まで取引された一定の規格を定められた材木)を生産していた歴史があり、現在よりも産業が盛んだったようだ。
道のスペック
幅2尺(約60cm)
幅2間(約3.6m)と書かれている書類があるが、これは2尺の間違いと考えられている。現地で確認した限りでも2尺で間違いなさそうである。
通行者
伊奈からの身延参りの参拝者
物資の輸送を目的とした道だったが、その記録はろくに残っていない。日蓮宗の総本山である身延山への参拝客がわずかに通ったという記録が残るのみである。実際に歩いた限りでも、道があまりにも険しいため、物資を担いで行き来するのは現実的ではない気がする。身延参りの客は、身延山への登頂を目的としているため、そもそも山道への抵抗が少なかったと考えられる。
廃道
完成後数年で荒廃
前述のとおり、物資の輸送はおろか旅人の往来も少なかったようで、完成後数年で荒廃してしまっている。人里から離れすぎており、修復もままならなかったらしい。ここまでコストをかけてせっかく作った道をすぐに手放してしまった背景としては、周辺の生活道路の改善や、鉄道の発達がある。明治22年(1889年)には、東海道線の新橋駅-神戸駅間の全線が開業し、首都圏と京阪神とが鉄道で結ばれている。
その後
林道開設の計画があったが頓挫
伊奈街道のルートをなぞるような、鳥倉と西俣をつなぐ林道の計画があった。昭和38年(1963年)に着工されているものの、自然保護団体の反対により頓挫している。現在の南アルプス登山の玄関口として知られる鳥倉林道は、この計画の一部である。この林道の工事がそのまま進んでいた場合、長野-静岡の県境はトンネルで越えようとしていたようだ。この時代はビーナスラインのような観光山岳道路の開発が盛んだったため、その流れに乗ったものだったのだろう。なお、詳細なトンネル線形は定かではないが、長野県側の坑口は標高2200m、静岡県側の坑口は標高2000mという記述があり、どう線形を引いても2kmを超えるトンネルとなる。この時代のトンネル技術としては不可能ではないと思うが、こんな山奥の主要幹線でもない場所にこの規模のトンネルを掘るのは、当時の予算的になかなか攻めた計画である。
まとめ
文献調査は以上である。伊奈街道は公共投資を派手に失敗した事例ということがわかった。原因として挙げられるのは、
・需要が把握できていなかったこと(身延山への参拝客しか通らなかった)
・維持コストを甘くみていたこと(山が深すぎて修繕がままならない)
・世の中の流れを読めなかったこと(周辺の生活道路の改善や鉄道の発達)
の3点だろうか。
起こっていることは現代とまったくいっしょだ。作ったはいいが使われていない公民館とかよく聞く話である。公共投資に限らず会社レベルの投資でも、だいたいこの3つの原因で失敗する気がする。伊奈街道の事業に対して、国や県がお金を出さなかったのは、この3点の分析がそれなりにしっかりされていて、うまくいかないと見越していたためかもしれない。だとすると失敗の原因は、伊奈街道の利害関係者が主観的に事業を進めてしまったこととも言える。思い入れのある人が物事を進めると客観性が失われてしまうのだ。「なにか大きいことをやる前には、客観性を維持できる外部の人間を入れろ。」伊奈街道からの学びである。
参考文献
大鹿村, 2022, 広報大鹿No.305.
大日本帝國陸地測量部, 1913, 五万分一地形図「大河原」.
高須茂, 1976, 日本山河誌. 角川書店.
服部文祥,2016, 南アルプス横断路をゆく. 岳人, 834, p8~15.
早川町, 2022, 令和4年広報はやかわ4月号.
深沢武雄, 1974, 赤石にブルがこだまする--大幹線林道鳥倉西俣線開設と大鹿村の人々. 技術と人間, 12, p152~159.
深沢武雄, 1974, 続・赤石にブルがこだまする--大幹線林道鳥倉西俣線開設と大鹿村の人々. 技術と人間, 13, p152~159.