ジャンダルムで揺れた鎖の音

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山と地質と街道とフィルムカメラのブログ 月1回更新

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登山と飲み会の代替性について

登山に行くと膨大な時間を人と話すことに費やすことになる。誰かといっしょに山に行けば、その人と一日中、泊まりがけであれば複数日いっしょにいることになるからだ。結果としてその人の内面まで深く知れることが多く、割と親密になりやすい。

一方でコミュニケーション自体が主目的の行為として、飲み会がある。こちらは人と話すために集まる行為であり、飲食という目的もありつつ、私の認識ではコミュニケーションが目的の上位にくる。

登山と飲み会は別のカテゴリーであり、その対象となる人はそれぞれ分かれる。ほとんど山でしか会わない友人もいるし、山に登らない友人もいる。ただし一部の友人はどちらのカテゴリーにも属している。そうなるとその友人と会う機会は、登山と飲み会の半々になりそうだが、多くの場合は登山が圧倒的に多くなる。これは登山でコミュニケーションが十分とれているからだと考えられる。特にコロナが流行っていた際は、飲み会がダメでも登山は許される風潮があったため、会う名目は圧倒的に登山に偏った。よってこの記事では、登山と飲み会の代替性について検討する。

コロナが5類感染症へと移行した2023年5月以降は飲み会も許される風潮となった

 

まず前提条件を設定しよう。前段では大きく一括りにして登山と言ってしまったが、挑戦的なクライミングなどではコミュニケーションの余裕がないことがある。本多勝一による登山の分類を引用すると、登山は「内部指向型」「外部指向型」「伝統指向型」の3タイプにわかれる。このなかでコミュニケーションが積極的に行われるのは「外部指向型」「伝統指向型」と2タイプである。「内部指向型」は文字通り自分自身の内面を優先し、目的遂行を第一とする。この型においてコミュニケーションは優先されないため、今回の議論の対象からは外す。

山に登る理由の中で、マロリーのような「そこにあるから」式タイプのものは、一言でいうなら「パイオニア=ワーク型」(創造的行動型)ということができよう。D=リースマンの性格類型に従えば、これは内部指向型に当たる。反対の「みんなが登るから」式タイプは、他人指向型の典型であろう。一方、わが国には伝統指向型の登山とみられるタイプも根強く脈打っている。それは、古くは信仰によるもの、近代ではいわゆる逍遙登山などに含まれるもので、東洋的「旅」の場として、たまたま舞台を山に移したかたちと考えられる。

本田勝一,1993,新版山を考える,p.73.(朝日文庫

また「外部指向型」と「伝統指向型」であっても、ひとりで行った場合はコミュニケーションが発生しない。もちろん山で出会った人とコミュニケーションをとることはあるし、一人で行ったほうが知らない人と話す可能性があがる。しかしそれは狙ってやるものではなく、友人との飲み会よりも相席居酒屋に近いものがあるので、こちらも今回の議論からは除外する。

対象とする登山の形態をまとめると、「友人と行く」かつ「旅や友人付き合いを優先した緩やかな登山」となる。登山の形態は白黒はっきりつくようなものではないので、この要素が含まれていればよい。

挑戦的な登山の場合、友人と行ったとしても、話す余裕がなくなる

 

なぜ飲み会では円滑なコミュニケーションがとれるのだろうか。一般的に言われているのは、お酒が入ることでリラックスして話すことができるという点である。そもそも酔いとはなにかを調べてみると、以下のような記述がある。

理性をつかさどる大脳新皮質の活動が鈍くなり、本能や感情をつかさどる大脳辺縁系のはたらきが活発化するのが「酔い」の初期状態です。

www.suntory.co.jp

すなわち理性を外す行為だということだ。いつもよりも多少内面をさらけ出すことなるため、コミュニケーションが進みやすいのだろう。

一方で登山はどうかというと、疲労によってその人の内面が漏れ出してくることが多い。人間は疲れて感情的になる。すなわち理性が外れているため、アルコールを摂取したのと似た状態である。ただし、これは登山に限らずスポーツ全般に該当する話だと思うが、スポーツ中に普通の話をし続けることがあまりない。フットサルをやっている最中に戦略の話をせずに「恋人と別れちゃってさ…」みたいな話はしないだろう。どんなに優しい人でも回答は「うるせえあとにしろ」である。運動強度が高すぎるし、状況変化も早すぎるのだ。登山は運動による理性の破壊と会話できる状況を両立する珍しい運動である。

下山時は、疲れが溜まっているが息が上がっていないため、特に会話が弾みやすい

このように登山は、飲み会と同じ理由によりコミュニケーションが円滑になりやすいと言っていいだろう。山でも飲み会でもどっちで会ってもいい人とは、山で会えばいい気がしてきた。しかし両者をまったく同じように扱うことができるかと言えばそんなことはなく、条件によって使い分ける必要がある。ここからは制限がかかる条件を検討する。

 

複数人の会話

登山は大勢での会話に向かない。2〜3人であれば気にしなくてよいが、4人以上で同じ話題を共有することが極めて困難である。山では一列になって歩くことになり、先頭と最後尾の間では声が通りづらく、たいてい会話は2グループ以上に分断される。車や電車での移動もたいてい2人掛けの座席により前後で分断され、登山後の入浴時は男女で分断される。全員で同じ話題を共有したいのであれば、飲み会で同じテーブルを囲んだほうがよい。

 

所用時間・費用

登山は飲み会よりお金も時間もかかる。飲み会のほうが人を集めやすい。全員の予定が丸一日空く日を調整するのは、人数が多いとかなり大変。飲み会は調整も容易である。

 

健康状態・体力

怪我や病気をしている状態では山に行くことができない。飲み会でちょっと集まるのとは、身体への負担がだいぶ異なる。

 

シーズン

冬に登山はやりにくい。夏山は登るけど冬山は登らない人がかなりいる。冬山に登る人であっても、冬は夏よりも確実にハードな登山になるため、登山の目的が「内部指向型」に寄りやすい。居酒屋は一年中行けるので優秀である。

 

親密度

出会ったばかりの人と登山に行くのは難しい、というか行きたくない。なぜなら登山は半分旅行であり、どんな性質を持っているか分からない人と旅に出るのはリスキーだと感じるからだ。山だとコミュニケーション不全によって危険が発生することもある。そのため親密度がある程度のラインを超えてからでないと、登山をコミュニケーションの手段として用いることはできず、これから仲よくなるかもしれない人には適用できない。飲み会は親密度が低くともなんとかなることが多いし、コミュニケーション不全が生じても2〜3時間耐えれば生き残れるので安心である。

山で飲み会をすることもあるが、これが一番楽しいという話もある

 

これらの制限に引っかからないのであれば、山でコミュニケーションをとればいいと思うのだ。山という要素が追加されるぶん楽しくなるに違いないと、私は信じている、

なお、この記事により、私は今後飲み会にまったく誘われなくなる恐れがあるが、「山に登れるやつは飲み会に誘うんじゃねえ」という意図で書いているわけではないことを、念のため記しておく。