ジャンダルムで揺れた鎖の音

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山と地質と街道とフィルムカメラのブログ 月1回更新

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シルバコンパスをシルバで正しく使いたい【樹海横断】

シルバコンパスをご存知だろうか。シルバはラテン語で森を意味し、森のコンパスとして軍用にも使われているほどメジャーなものだ。一般のコンパスとの違いはプレートが付いていることで、このプレートを使って自分の進む方角を定めて直進することができる。読図をやると誰でも一度は習う方法だが、日本在住でこの方法を実践したことがある人はほとんどいないだろう。なぜなら、日本には直進できる場所がないからである。シルバコンパスを使った直進方法は草原や砂漠などの平らな場所を想定しているが、日本の平らな場所はたいてい街になっているか湿地で歩けないかとなっている(シルバコンパスを作っているシルバ社はスウェーデンのメーカーであり、平らな森が割とある)。山では地形が厳しく目的地に向かって直進することができないため、整置(地図の向きを実際の向きに合わせること) で使うのみとなる。そうなるとプレートはただの重りとなる。使わないからと言ってわざわざプレートを外して軽量化を試みている友人もいるくらいだ。初めから普通のコンパスを買え。

 

このように日本では無用の長物となりがちなシルバコンパスであるが、やはり本来の使い方をしてみたい。使えそうな場所を検討した結果、地形がなくて直進できそうな場所を発見した。樹海である。

樹海とは正式には「富士山原始林及び青木ヶ原樹海」という名前で国の天然記念物に指定されたエリアであり、富士山麓の北西に位置する。地形的な特徴として、富士山の噴火に伴う溶岩が比較的最近流れた場所であるため、まだ目立った谷が形成されていない。植生的な特徴としては、噴火後に同じタイミングで育った樹木が多いためそれぞれの区別がつきづらく方向感覚を失いやすい。さらに木々が深く茂っているため遠くの目標物で方位を判断することもできない。まさに迷うために存在する素晴らしい森なのである。コンパスか効かないとかいう噂もあるが、それは噂に過ぎない。富士山の噴火に伴い流れた溶岩は玄武岩質溶岩で、鉄分が多く含まれるため通常の岩石より強い磁力を持つものの、コンパスを岩に密着させてかろうじて針が揺れるレベルである。ちなみに玄武岩質溶岩はハワイの火山で出てきている溶岩と同じ種類だ。ハワイでコンパスが効かないという話は聞いたことがない。なにより樹海ならばシルバコンパスを森で使えるではないか。

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シルバコンパスと2万5千分の1地形図

ルートは3kmの直線を設定した。角度が1°ずれると3km先では約50mずれる計算になる。スタート地点は分かりやすくゴルフ場横の十字路、ゴールは大室洞穴とした。時期は草が枯れ始めて雪の降る前の11月だ。もっとも森を歩きやすい時期である。天気は晴れがよかったが当日は曇っていた。太陽が隠れているため方向感覚が奪われ、ありがたいことに難易度がさらに上がった。携帯は念のため持っていくが、もちろん使用禁止だ。幸いにもこの計画に賛同してくれた友人がいたのでメンバーは私を含めて2人である。樹海ということもあり、1人だと遭難よりもホラー的な意味合いでこわい。

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予定ルート

まずは道の駅鳴沢からゴルフ場横の十字路に向かったが、いきなり道を間違えた。先行き不安である。ゴルフ場横の道を通ったが、地図に載ってない道が大量にあったのだ。地図が信用できなくなり、確実に分かると思って設定した十字路がどこか分からなくなってしまった。こんなはずではなかった。スタート地点から躓くとは思わなかった。地図の信用できる情報の抽出を試みる。おそらくこの2万5千分の1地形図は空中写真をベースに作られているため、森の中の道はあまり信用できないが、ひらけた場所にある建物なんかはかなり正確だと推定した。スタート地点に設定した十字路近くにゴルフ場の建物があったため、そこからの距離と角度で十字路の特定に成功し、なんとかスタートを切った。

ここからはひたすら直進する。ようやくシルバコンパスの本領発揮である。シルバコンパスは磁北(磁石が指す北)と進行方向の角度を記録し直進を可能にする。磁北と進行方向の差は、地図上では偏角(地図上の北とコンパスが指す北の角度の差、このあたりでは約7°)を考慮した上で255°になった。この角度だけが頼りになる。我々の命は255°が握っていると言っても過言ではない。255°が分からなくなると即遭難だ。でもシルバコンパスが角度を覚えていてくれるので、255°という数字自体は忘れても大丈夫である。コンパスに命を預け255°を忘れることにしよう。このコンパスとの20年の付き合いを信じたい。任せたぞシルバコンパス。

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森をひたすら直進

森に入るとあっという間にどこにいるか分からなくなった。見たことのあるような景色がずっと続く。そして本当に地形がない。溝状の谷があることもあるが、地形図に表れるほどのものではなく、地図上で自分の位置を把握することが不可能となった。ヤブの深さはまちまちで、あまりないところもあればかき分けて進まなくてはいけないところもある。これはおそらく地面を覆う溶岩の新しさと対応している。溶岩が流れたばかりの場所は土壌が形成されていないので、ヤブがあまりない。また、無数に凹地が存在する。これは火口または溶岩のなかの空洞が陥没したもので、比較的新しい地形である。谷は浸食が進むが、凹地は埋まる一方なので、凹地の寿命は非常に短い。そのため、心なしかヤブがあまりないところに凹地が多い気がする。ヤブが多い場所では気づけなかっただけかもしれないが。

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パノラマ写真、どこを見ても同じ景色

地質や植生を観察しつつ進んでいると、急に視界がひらけ、グリーンが広がっていた。まさかのゴルフ場である。改めて地図を見直すと、細い破線が書いてあった。小道でもあるのかと思って読み流していたが、用地界だったようだ。ゴルフ場にいたおじさんと目があった。突然森から人が出てきてとてもびっくりしていたが、我々もゴルフ場が出てきてびっくりしたからおあいこだ。おじさんは何も見なかったことにしたらしく、ゴルフに戻っていった。自分たちがホラー的な事象の原因になるのは想定外である。さて、一番の問題は樹海とゴルフ場の間に柵があり、直進できなくなったことだ。ゴルフ場の反対側に目標物を設定したいが、木で視界が悪くうまくいきそうにない。しょうがないので反対側から今自分たちがいる地点が分かることを願って、反対側へ向かうことにした。タイミングよくゴルフカートが目の前で停車した。これなら反対側からも見えそうだ。急いで移動する。半分くらい移動したところで、ゴルフカートが発進した。終わった。と思ったら別のゴルフカートが同じようなところに停まった。なんとかなりそうだ。ゴルフカートが255°(75°)のライン上にいることを確認し再出発した。

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ゴルフ場を迂回

ここからは非常にヤブが深く、まっすぐ進むのが困難であった。1人が先行し、もう1人が後ろから角度を見て指示を出す作戦で進む。なかなか進まないがしょうがない。また、このあたりから足元の空洞が目立ち始め、草で覆われた空洞をたびたび踏み抜いた。雪山で踏み抜くのと似た感じだ。落下はなかなか慣れない。肉体よりも精神が大きく削られる。

このようにスピードは落ちていたが着実に進んでいたようで、ほどなくして予定ルート終盤に交差するはずの登山道(精進口登山道)と交わった。ただこの時点では登山道のどの地点にいるかは判断のしようがないため、どれくらい正確に進めているかは分からない。そこからさらに300m程度進むと、とうとう大室山の縁の道に出た。左右どちらが大室洞穴か分からないのでうろうろしてみたら、大室洞穴への分岐を発見した。3km進んで誤差は左に約50m、1°ずれたのとほぼ同じ値だが、どんな経路を辿ったのかGPSで答え合わせをしてみよう。

途中まではかなりいい感じだ。3分の1ほど進んだ地点でゴルフ場を迂回したあとがしっかり残っている。そして迂回後の再スタートに失敗している。2台目のゴルフカートは1台目と違う場所で停まっていたようだ。目標物を動くものにしてはいけない。今回一番の学びである。柵を越えて突っ切ればよかったかもしれないが、そんなことをして捕まったときに動機を理解してもらえるとは思えないため、やめておくのが賢明かもしれない。その後はヤブが深かった場所で、南にずれてしまっている。ヤブが深くなかった後半4分の1程度は計画線とほぼ平行である。今回の敗因はゴルフ場とヤブであることが分かった。草原とか砂漠なら割とうまくいく気がするため、いつか試そうと思う。海外にいくしかないが。

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計画線(赤矢印)と実績線(白抜き)、世界の霧というアプリを使用

帰りは登山道で帰るので楽勝である。と思ったらいきなり地図に載っていない道が出てきて正しい分岐を見失った。しばらくうろうろしてやっと発見したと思ったら、今度はその道が不明瞭すぎて道がなくなりただの森となった。道が霧散する感じだ。道がなくなっていく感じはかなりこわい。もちろんコンパスで方位を合わせれば帰ることはできるのだけど、道を進むからと安心していた心がバキバキに折られる(ちなみにこの時点でまだ携帯は解禁していない)。

森を直進して15分程度、やっと登山道への復帰に成功した。十字路を左に曲がると、そこから地図では幅1.5〜3.0mの軽車道だ。さすがにもう迷わず帰れるだろう、と思ったら再び道が霧散。なぜ1.5mの道路が消えるんだ。さらに夕方になりあたりが暗くなってきて、焦りが出始めた。しかしここで冷静な判断を下せないと意味がない。焦る心はいったん切り離し置いておく。このヤバい感はルート外の醍醐味のひとつだ。この感覚ごと楽しむくらいがちょうどいい。街に住む現代人ならではの贅沢な娯楽である。ただこのままだと帰れなくなり翌日の仕事に支障が出る。街に住む現代人の現実である。戻りたいのか分からなくなってきたもののひとまず現実に戻るため、分からなくなった地点に戻り道を辿りなおし、なんとか道を発見した。この後も道は何度もなくなり道への信用は地に落ちたが、日没までにスタート地点への帰還を果たすことに成功し、樹海の旅は終了となった。

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迷った跡

帰りは道を通ったにも関わらず、結局行きと同じくらいの時間を要した。迷うのは道があるかららしい。始めから自分で道を切り開くことを決めて真っ直ぐ進めば、たとえ時間がかかったとしても、人が作った道を進むより確実に前に進めるようだ。人生の教訓のようになってしまったが、樹海を歩いてみたい人に向けた言葉である。